職場の悩み

性善説と性悪説の違いを徹底解説!経営者は知っている人の本質とは?

性善説(せいぜんせつ)と性悪説(せいあくせつ)という言葉を耳にしたことがあるかと思いますが、これは中国の春秋戦国時代の終わりごろに作り出された言葉です。春秋戦国時代は諸子百家と言われており様々な思想が生み出された時代でもあります。その諸子百家の百花繚乱の思想の中で現代まで残り使用され続けているのがこの性善説と性悪説なのです。これらの2つの考え方の使い方は様々ですが、今回は教育で使用されている性善説と性悪説をその違いも含めて書いてみます。

性善説とは人間の本質は生まれながらにして善であるという説

性善説とは、春秋戦国時代の孟子により提唱された考え方です。孟子は儒家であり、孔子の儒教の教えを発展させて性善説を唱えるようになったと言われています。この説は、我々人間の生まれ持った性質は善である、という内容です。ただし、生まれ持った性質が善であるだけで、朱に交われば赤くなるとの諺のように、成長すると悪の性質を帯びてくることもあります。現在で解釈される場合が多い人は生まれながらに善人だから悪いことはしない、という考えは大事な部分がカットされており、この解釈の先には実は善人でも環境により悪の心が芽生える場合があるという内容があるのです。

よく、性善説に則り物事を決めようという動きがあります。人の善意を当てにして何でも人任せにしてしまうと大抵失敗します。このため、規制がかけられたり法令が整備されたりして次第に息苦しい世の中になってしまいました。一方で、田舎に行くと野菜の無人販売所があり、野菜が格安で売られています。盗もうと思えば誰でも盗めるのですが、それでも存在しているということは盗むような人はおらずに人の善意を信じることが出来るということです。無人販売などを見ると、何だかホッとして温かい気持ちになりますね。できるならば人の善意は信じたいものです。このようなケースは、現代の解釈でいう性善説という言葉が当てはまります。

性悪説とは人間の本質は生まれながらにして悪であるという説

性悪説は荀子という思想家が、孟子の性善説に反して唱えた思想です。性悪説は性善説の正反対で、我々人間の生まれ持った性質は悪である、という使い方をします。しかし、人々は成長するにつれて善行を覚え、多くの人々は善人になります。このため、人はもともと悪であるのでしっかりとした教えが必要であり、適切な法律を作り人々が悪行を犯さないように管理することが大切である、という主張です。この民衆を管理して導くのが君主の役割であると説いています。また、人々に罪を犯させず善に目覚めさせるためにも、荀子は善を教えるための教育が大切である、ということを述べています。

人々はそれぞれ大なり小なり生まれながらにして欲望を持っているものです。それは物欲や独占欲、出世欲、自己顕示欲などです。この欲望を持つこと自体は悪いことではなく、人が人として生きるためにも必要なことでもあります。しかし、これらの欲望が増大してこの欲望に忠実になると悪行を犯すものなのです。この悪行を抑えるためにはまずは人々を教え導き、そして図らずも罪を犯してしまった場合は罰を以って臨むことが必要となります。人を信じるのではなく、罪を犯してしまう者としてとらえ、罪を犯させないためにも教育や罰で臨む、これは意外にも現在社会にも通じる考え方であると思います。

性善説と性悪説は解釈の違いはあるが目指す目的は一緒

本来の性善説や性悪説は君主に向けられて使用されていました。つまり、人は生まれながらにして善であるのに、悪人が多いのは政治が悪い、という使い方です。衣食住足りて礼節を知ると申しますように、人間として最低限の生活ができないと、本当はやりたくはないのですが、空腹に耐えかねて窃盗などの罪を犯してしまう可能性が高くなってしまいます。このような世の中ではせっかく持って生まれた善の性質が全く無駄になってしまいます。一方の性悪説では、人間は悪であるので、幼いころから善になるための適切な教えを施すことが必要である、そして罪を犯すのは人間なので当たり前であり処罰をする必要があるのです。

性善説と性悪説を教育分野使用するとその違いは何?

性善説と性悪説、使い方は違いますがどちらも人々の性質を通して人々の作り出す世の中について述べています。性を善として人々を導くか、もしくは性を悪として人々を導くのか、その先には平和な世の中を作るためにはどうすればいいのか、という共通の目標があります。性善説では悪人が増えればそれは徳のない君主の責任であり、性悪説では善人が増えれば法律が機能しており君主がしっかりと統治できている、ということになります。このロジックは教育にも置き換えて考えることもできます。

性善説と性悪説はそれぞれ教育分野での使い方があります。性善説に基づくと、基本的に生徒の主体性に任せますが、生徒の教育が不十分であればそれは指導する教師の指導力不足であると言えます。一方で性悪説では、生徒は勉強をサボることを前提としてサボらないように厳しく、しっかりとしたルールに基づいて教育が行われます。両者とも生徒をしっかりと教育し、必要な知識を獲得させることに主眼が置かれています。目指すところは一緒なのですが、そのアプローチが異なっており、世の中の学校を見てみると生徒に厳しい学校もあれば放任主義の学校もあります。どちらがいいかはそれぞれ利点と欠点がありますのではっきりとは言えませんが、教育の効果は生徒の個性により合う合わないという点で差が出てきます。

性善説と性悪説を専門職の倫理教育に取り入れる際の使い方

今日食べた食品を信じられますか?もしかすると賞味期限切れの食材を使用して作られて食品かもしれません。もしかして今お住いの住居は欠陥住宅ではないですか?など、身の回りの物を疑い出したらきりがありませんね。この社会は信用で成り立っていますので、皆さん信用に基づき製造者を信用していることになります。この信用のバックグラウンドには職業倫理が存在しています。この職業倫理は性善説に基づき構築されるのか、もしくは性悪説に基づき構築されるのか果たしてどちらでしょうか。この性善説と性悪説は倫理教育に取り入れられて職業倫理へと繋がります。

製造物責任法に見る性善説と性悪説とはどういうもの?

具体的な法令から性善説と性悪説を見てみましょう。製造物責任法という法律、いわゆるPL法が1995年7月1日に施行されました。この法律以前は、製造物の欠陥により例えば怪我をした場合、製造者に故意や過失があったことを被害者側が立証する必要がありました。性善説に則れば、製造者は故意や過失があった場合は過失を認めるべきではありますが、過失を理解していても立証されない限りは認めることはないでしょう。被害者が泣き寝入りしている状況を考慮して、製造物に欠陥があったことのみを立証すれば製造者から賠償を受けることが出来るように法改正されました。これが製造物責任法です。

ここで何が大切なのか考えてみましょう。そもそも、使用者が怪我をしないように欠陥の無い商品を作り出すことが大前提で必要であり、この場合製造者は性善説に則り欠陥の無いような消費者のことを第一に考えた商品を作ります。製造物責任法により、製造者の責任が追及されやすくなった結果、より性善説に近づいたという訳です。この法律により、欠陥により生命財産を毀損してしまった被害者の方々が賠償を請求しやすくなったという点のみならず、製造者がより安全で高品質の商品を作るようになったことも繋がりました。製造者側がより性善説に基づき、誠意を持って商品を作るようになったとも捉える事が出来ますね。製造物責任法は製造者にとっても消費者にとっても良い法律であると考えられます。

医師や弁護士など高度な専門職の職業倫理とはいったいどういうもの?

医師や弁護士など高度な専門知識を持って仕事をする方々の職業倫理とは一体どういうものなのでしょうか、気になりますね。一般的に医師や弁護士などの他にも公務員や一般社員なども含まれますが、守秘義務を負うことになります。しかし、医師や弁護士の場合はその守秘義務は患者やクライアントのプライベートなことにまで及びます。特に弁護士の場合にはクライアントが過去の別の犯罪の実行を仄めかしたとしても、これは守秘義務で守られなければならず、漏らすと懲戒の対象になってしまいます。

弁護士になろうと思う人たちは正義感が強い方が多いと感じますが、このような情報を知ってもなおクライアントを守らなければなりません。それが仕事だからです。もちろん、守秘義務には例外もあり、犯罪を未然に防ぐなどの正当な理由があった場合はこの限りではありませんが、弁護士にとっては場合によっては禁固刑も有り得る非常に拘束力の強い義務となっていますので、正義と現実の間で苦しむケースもあります。

また、稀に見る凶悪な犯罪の被告の弁護を行う際には、社会から冷たい目で見られる場合があり、苦しというケースもあります。これは医師も同様であり、治療効果の高い高価な薬がありますが、患者にそのお金を払う金銭的余裕がない場合など、苦しむケースが見られます。ミスをした際なども取り返しのつかない状況に陥ることもあり、医師の場合は患者が死亡するという事態にも陥りかねません。弁護士の場合は最悪なケースでは冤罪事件に加担するなど他人の人生を左右しかねませんので、プロフェッショナルとしての高い職業倫理が求められています。

技術者倫理教育における性善説とはどういうもの?

技術者は特に高い倫理が求められる職業です。なぜなら、例えば高速道路の高架の手抜き設計及び手抜き工事を行うと、高架は崩壊し多大な被害をもたらすでしょう。船ですと沈没しますし、橋なら崩壊してしまいます。手抜き工事により橋が落ちた、ビルが壊れた、道路が陥没したなどの大損害の例は日本のみならず世界中で見られ、欠陥工事で取り返しのつかない大事態を引き起こしていることが分かります。社会インフラから半導体チップまで様々なモノを製造する技術者たちには、社会を守るというより高い倫理観が必要とされています。もちろん、これは先ほど述べました医師や弁護士などにも当てはまりますが、欠陥品を作った時の被害を考えると、実は技術者こそ高い倫理観が必要なのです。つまり、技術者の倫理観は社会を守るために高い善の性質を持って自ら率先して欠陥を無くすように努力する、いわゆる性善説で語られるべきなのです。

日本国民であれば義務教育で小学校と中学校へ通い、道徳教育を受けます。技術者の多くは大学へと進学し、専門知識を学びます。しかし、技術者倫理がカリキュラムにある大学はごく少数ではないでしょうか。つまり、大半の技術者は技術者倫理を学ばずに社会へ出て、現場で学ぶのです。もちろん、建築や情報処理など各種学会ではそれぞれ倫理規範を定めており、会員が従うべき行動規範を定めています。

専門職の倫理教育は性善説に則って行われるべきなのか?

欠陥品はその商品を作った本人が一番理解している場合があります。作った本人だからこそ欠陥が分かり、そして作った本人だからこそ発見しやすいのです。製品開発段階で欠陥品ができることは仕方ありませんし、何も悪くありません。しかし、その欠陥品が世に流通するとなると大問題です。この欠陥品を見つけた時どう振舞うか、この点が技術者倫理において非常に大切なことなのです。隠そうと思えば隠せます。この際には人間には知られたくないことを隠す性質があるとして性悪説で技術者に接してもいいのでしょうか?

創造性が問われる技術の世界です。性悪説で罰を持って臨むのは創造性を低下させてしまいかねません。このため、技術者を例にとりましたが、技術者のみならず専門職の倫理教育は性善説で行われるべきなのです。より高い倫理観を身に着けていくためには大学での教育及び、職場においてもしっかりと行われるべきであり、この教育に時間を使用することは公共の利益にも繋がります。そして、この倫理観は仕事を通して獲得するのみではなく、各事例の分析や訓練により獲得されるのです。つまり、専門職の倫理教育は性悪説ではなく、性善説に基づいた教育が必要なのです。

まとめ

一般的な教育においては、人間は怠けるという前提で性悪説を以て臨むのが良いと思われますが、倫理教育はこれと違い逆で性善説を以て臨む必要があるのです。教育内容により性善説と性悪説が使い分けられるのです。倫理的な問題に直面する際は偶然の要素に支配される、つまり偶然その場に居合わせたなどで巻き込まれてしまうケースが多いです。ですので、誰しも大なり小なり倫理的な判断を求められる時が訪れる可能性はやってきます。図らずもその状況に直面した時、どのように判断し行動するか、個人の職業倫理の資質が問われる瞬間です。もちろん絶対的な回答はありませんので誰しも自分自身で答えを出していく必要がありますね。

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